滋賀 街道の常夜燈



         定年を機に写真を始め 題材を求めて滋賀県下をくまなく走り回っています

         滋賀県下は「東海道」「中仙道」「北国街道」「伊勢街道」などの主要な街道がありますが、
         新しい道と入り混じってどの道が旧街道であるかはよく判りません 

         街道筋と思われる要所要所に 常夜燈が多く残されているのが目に入り 何も考えずに
         カメラに収めてきました
     
         溜まった常夜燈(神社に見られる献灯の常夜燈は除きます)の写真を整理しておりましたら 
         その時代の様子や庶民の底力が何か見えるような気がしてきましたので 街道について調べ
         その街道沿いに残る常夜燈を整理してみました

         常夜燈は風雪に晒され 文字も判読できないものも多くあり また ゴミ集積場や消火栓の
         置き場などになり 当時大切にされた面影は全く無くなっている常夜燈も見られるます
         そして 拓本の手法も持ち合わせていないので銘文不明で判読できなかったものが多く見られ
         たのは残念です

         常夜燈が何時頃から建立され、滋賀県下に何基存在するのかは調べようもないので
         わかりませんが 伊勢神宮への参拝(所謂お伊勢まいり)が盛んになるとともに、
         「伊勢詣り(伊勢両宮)」「四国金毘羅詣り」や江戸参勤交代の道しるべ あるいは、
         参宮御礼として盛んに建立したのではないかと推測します

         そして 常夜燈が多く存在する地域と稀にしか見られない地域があり 信仰の深さや裕福度の
         違い 往来する人々の人数や安全確保などが伺い知れます 

         それはまた 存在する神社・仏閣の数や 今に残る伝統行事の数の違いにも表れている気が
         いたします
     
         なお、江戸時代の五街道(幕府の直接支配)は
         東海道・中仙道・奥州街道・甲州街道・日光街道で江戸日本橋が起点になっています

   余談

    皇女和宮が 14代将軍徳川家茂に京都から嫁いだ時(文久元年1861年)の行列数は3000人
    から4000人とも言われ 10月20日に京都を出発した一行の第1陣(1000人)が 草津宿を
    通過したのが21日で 全ての行列が過ぎるまで 4日を要したといわれる
    また 東海道は天竜川や大井川の川留めを嫌って中仙道を利用して江戸へ向かったそうである
    行列が過ぎ去るまでの4日間 街道筋は「したにー したにー」で 葬式もすることができなっか
    たとある

 道標について

    常夜燈を探し求めていると 常夜燈に行き先を示した所謂「常夜燈型道標」もあるし また 
    ひょんな場所に道標が見られる

    常夜燈探索のついでにその道標もカメラに収めていたが その数が多いので改めて整理して
    みました
    道標のすべてを収録しているはずもなく 後から発見したものは都度追加して行きたいと思います

    道標の起源はよく判りませんが 道の分岐点や曲がり角にあり 旅人が道を誤らないように
    したのではないかと思います
    また 道標のある場所・地域によって道標に刻まれた行き先表示に特徴があるようです

    湖西の道路は湖岸をほとんど一本道であるために道標の数は少なく 主要な街道が通じて
    いる琵琶湖の東側では街道と街道を結ぶ「間道」が発達していたようで 道標の数は多い

    最近は区画整理など生活様式の変化に伴い 常夜燈でもそうであるが 道標が元あった場所
    から移設されているケースや藪や木の茂みに埋もれて見落としやすいケースがある

    旧街道でこの辺に道標はあるでろうと見当をつけながら探し求めているが 地の古老や代々
    その場所に住み着いておられる方に 所在場所や歴史について話を伺い一つひとつ確認する
    のも結構楽しみでもある

   注記:道標については常夜燈の後ろに添付しています



 琵琶湖周辺の街道は次のとおりです

   主要街道
     1、 東海道    2、 中仙道  3、 朝鮮人街道(戦国の道) 4、 八風街道

     5、 御代参街道 6、 杣街道  7、 北国街道          8、 塩津街道

     9、 西近江路  10、若狭街道(鯖街道)

   脇街道
     11、北国脇街道  12、 志那街道 13、 新善光寺道(守山道)  14、 中郡街道

     15、矢橋街道   16、 甲賀道  17、 伊賀街道         18、 馬街道  

     19、高野街道   20、 千草街道



旧街道図 (近江の道標−歴史街道の証人ー 木村至宏 京都新聞社発行より)



 東海道  中仙道  朝鮮人街道
 八風街道  御代参街道  杣街道
 北国街道  塩津街道  西近江路
 若狭街道  
 北国脇街道  志那街道  新善光寺道(守山道)
 中郡街道  矢橋街道  伊賀道
 甲賀道   多羅尾京道  高野街道(未)
 千草街道(未)


 常夜燈の棹には「大(太)神宮」「伊勢両宮」「金毘羅大権現」
 「愛宕山」などの銘が刻まれています


   「大(太)神宮」「伊勢両宮」


   「大(太)神宮」「伊勢両宮」は伊勢神宮参詣する講の人々が建立した常夜燈

    伊勢神宮(伊勢神宮は「お伊勢さん」親しまれている)参詣する講は伊勢講 明神講とも呼ばれ
    三重県伊勢神宮を祀り 代参を行うこともある講でる 

   「お伊勢講」は畿内では室町中期から見られた現象だが 全国的になったのは江戸以降である

   江戸時代 農民・庶民の移動には厳しい制限があったが 伊勢神宮参拝が目的であれば
   無許可の旅行であっても罰されることなく 伊勢神宮参詣に関してはほとんどが許された

   当時の農民・庶民にとって伊勢までの旅費は 相当な負担であった
   日常生活ではそれだけの大金を用意するのは困難である そこで 生み出されたのが「お伊勢講」
   と言う仕組みで くじ引きなどにより代参者を決めていたようである
   伊勢神宮参詣は庶民の一生に一度の夢でもあった



 お蔭参り(おかげまいり)

   江戸時代に起こった伊勢神宮への集団参詣運動 
   数百万人規模のものが、60年周期に3回起こったといわれる

   宝永(1705)のお蔭参りは 本格的なお蔭参りの始まりで 2ヶ月間に330万〜370万人が
   伊勢神宮に参詣したとの記録がある(当時の日本総人口:2769万人(1700年)


   お蔭参りの最大の特徴として 奉公人などが主人に無断で または子供が親に無断で参詣
   したこである これがお蔭参りが抜け参りとも呼ばれるゆえんで 統制がきかなくなったようである


 「金毘羅大権現」

  金毘羅信仰は海上生活で生計を立てる人たちが 四国 香川県にあり琴平町の象頭山
  (ぞうずさん)の金刀比羅宮(ことひらぐう)を守護神として信仰し 金刀比羅宮参詣を目的に
  したものが金毘羅講である
  (金毘羅神は仏教の守護神(薬師十二神将)の一つ)

  近江で金毘羅信仰が発達したのはビワ湖での漁業・物資の流通に従事する人々や近江商人の
  活躍で航路を使用する人々の航海安全を祈願したことからとも言われる

  なお 近江八幡 沖島では漁業に従事する人の金刀比羅宮参詣は豊漁の神である西宮戎(兵庫)
  へ参詣しているそうです


  「愛宕山」

   愛宕講は愛宕神社へ参詣するための組織で 近江八幡市内では多くの組織があったようで 
   集落の要所に「愛宕山」の燈籠も見られる

   愛宕信仰は  京都・愛宕山に鎮座する愛宕神社(火伏せの神)へ代参し 火防の神に対する
   神道の信仰である

   愛宕神社は、古くから修験道の道場となり、この修験者によって 江戸時代中頃から愛宕信仰が
   日本全国に広められ 中世後期以降、愛宕の神は火伏せに霊験のある神として広く信仰される
   ようになった