菅浦まつり
H25.04.06−07
長浜市西浅井町菅浦
菅浦地区は 奥びわ湖の葛籠尾崎半島(奥琵琶湖パークウェイ入り口)の山にへばりついた集落で
「陸の孤島」と呼ばれていた
このため 中世では惣(そう)と呼ばれる自治組織を形成し 村の出入り口には「四足門」があって 村への出入りが
厳しく監視されていたそうです
菅浦の歴史と観光ガイドによれば
菅浦は 平安時代以前に 贄人(にえびと=穀物以外の食料品を天皇に献上する人)の小集団がこの地に住み
漁業と舟運で働いたことに始まったと言われます
ここの漁民が 供御人(くごにん)として自立したのは平安初期ですが いつしか自らを天智天皇の供御人の末裔と
言われるようになりました
今年のまつり宵宮・本日は 「爆弾低気圧が日本を通過する荒れた日で 体感気温は5度位であった」が
雨・風の中実施された
宵宮(4/6)は 午後3時から行われ 三基の神輿(須賀神社・小林神社・赤坂神社)に神職の修祓が行われ 神のお使い役が
扇をかざして馬場に飛び出ると 東西に分かれた「御供所」から 控えていた若衆がお神輿堂へ飛び込み神輿を担ぎ出す
(今年は風雨がキツイのでクジで決められた)
担ぎ出された神輿は山の中腹に鎮座する須賀神社から「神移し」のため 二の鳥居まで担がれて駆け上るまで 一の鳥居付近を
何度も行き来し 最後は二の鳥居まで担がれて神職から神輿に神霊を移して お神輿堂へ戻る
本日(4/7)は 午後3時から行われ 宵宮時と同様に御供所から一斉に飛び出した若衆が お神輿堂へ飛び込み神輿を担ぎ出す
集落内をお御輿と幣が渡御し 須賀神社へ戻ると御神饌を供え 玉串奉奠・巫女の舞・撤饌が行われる
その後 「幣まつり」が行われ 幣が倒されると同時に若衆によって下げられ 御供所からコモ巻きにされた者が数人に抱えられて
御輿前に放り出される
お御輿は再び担ぎ出され 鳥居前を練った後二の鳥居まで駆け上がり ご神霊は神職さんによって本殿に還座される
今年10月は50年に一度の大祭が挙行される
菅浦集落
桜と菅浦集落 |
四足門 |
菅浦集落の町並み 湖岸側に波避けの石積みが残されている |
淳仁天皇(758-764)が この地に隠れ住んでおられたと伝えられており その菩提寺が長福寺寺跡にのこされている また 須賀神社拝殿の裏に 淳仁天皇の舟型御陵が残されており 素足でないと 参拝することはできないそうである |
宵宮 (4/6)
雨のため担ぎ出す御輿をクジで決める |
神職による修祓 |
神のお使い役が 御供所から放り出される |
神のお使い役が御供所から放り出されるのを合図に 若衆が御輿へ |
赤坂神社の御輿が担ぎ出される |
風雨激しい中 御輿は鳥居前を練り回る |
二の鳥居まで御輿を担ぎ上げ 神霊の到着を待つ |
神職の手にご神霊 御輿に移される |
本日(4/7)
衣装を肩に |
お神輿堂へ拝礼して 東西の御供所へ入る (お神輿堂前馬場は関係者以外立ち入り禁止) |
神輿のお神酒を供える |
神のお使い役が扇をかざして御供所を飛び出る |
神のお使い役が扇をかざして御供所を飛び出るのを合図に 若衆が一斉に自分たちの神輿へ向かって走る |
神主役が御幣を担いで走り 若衆は御輿へひた走り |
一番最初でた御輿が集落の東端にある四足門まで渡御する |
集落の東端の四足門まで渡御する神輿 |
集落の東端の四足門まで渡御した神輿が戻ってくる |
神輿が通る道中には砂が盛られている |
集落のお旅所での儀式 |
ちまきが振舞われる |
神饌の供饌・玉串奉奠のあと巫女舞の奏上 (大雨でカセットも漏電して舞もしばしば途切れる) |
幣祭り 氏子から選ばれた三人が神主となり神輿の前で幣を振る (天下泰平・五穀成就・万民快楽を唱える) |
長さ3mほどの御幣を振る(地面を擦り砂埃を上げる) |
御幣を倒す |
倒された御幣を若衆が持ち去る |
コモ巻きされて神輿堂前まで運ぶ |
置き去りにされたコモ巻きの人は 一人で起きないといけないので泥まみれ |
雨風の中 神輿を担いで祭りを盛り上げる |
踵部分がない独特なワラジ |
神送りのため二の鳥居まで神輿を担ぎあげる |